8月15日の社説を読んで

最近あまり書かないのでひさびさに「特別版」社説レビューしようかとまたまた思ったのですが、産經新聞を論外としてどの社説もイマイチなのです。その日までの日本と、その日からの日本は、いったい何が違って何が違わなかったのでしょう。そこらへんの総括ができてないから、渾身の作も今ひとつになってしまうように思います。具体的に各紙をみてみると、
毎日新聞は、「らしいといえば毎日らしい」飛び道具を使ってきました。エネルギーと安全保障、今日言わなくてもいいとは思いますが納得です。
たしかにそうで、あの当時日本政府と日本軍は南方の資源(主に石油)をあてにして、対英米蘭戦争をはじめました。しかし、遠地での作戦に輸送のために商船が駆り出されては喪失、作戦優先でさらに商船を駆り出す、これで船が足りなくなって資源確保があやしくなりはじめ、さらに戦況不利となってくると、こんどは資源を日本へ輸送する最中に潜水艦や航空機に襲われて船を沈められてしまい商船隊が壊滅して資源が入らなくなったという経緯があります。それになぞらえて、「いつまでもあると思うな親の金(←わざと『の』にしてあるのは、またの機会に使いたいから)」、いや、化石燃料がいつまでもあると思っては国の安全保障上もよろしくないということになるのでしょう。
読売がよくないのは、国のためにならずに亡くなった人が考えに入ってないことです。これは何度も私が言っていることなので、細かくは言いませんが。ただ大雑把にいうと、“太平洋戦争では軍人何人、民間人何人が亡くなった”という言い方も、それはそれで重要ですが、「この人は、こんなにして死んでしまった」という言い方をすることのほうが、今は大事なのではないかと思います。それはもちろん、たとえば日本軍が占領した各地でこんなやり方で民間人を殺してしまった、といったことも含めてのことです。こうやって積み重ねていけば、先の戦争の本質がなんだったのか、よりはっきり見えてくるだろうと思います。国立の追悼施設、靖国の問題、いろいろありますが、それよりもこっちでしょう。
だから朝日の社説を今朝読んで、まずまず納得したのでした。ただ、新聞なんやから(=オレと違うんやから)もう一歩言えよ、というツッコミを入れたくなる内容ではありました。そういう意味では、今日の東京の社説にはだいたい満足です。